ゆっくりいこう

自分の為だけに書いています。意見は聞いていません。

・もう数週間で学校も終わりだ。今日はみんなで遅ればせながら新年会をする事になっていた。意味不明に一人が当日に抜けたが、それ以外は全員参上して馬鹿騒ぎ。村上師匠を敬愛する会の二人が集っていたので「え"ーーーっ!?」も「ほんまやーーー!」もふんだんに取り入れた。村上ショージを解さない者は所詮二流の笑いレベルである。スベりに行っていることに気付かずにただ「寒い」だとか「素人」だとかで片付けるのは余りに狭量だ。明石屋電視台ではさんまを笑わせる事に全力を注ぐ、もっと観客を笑わせてよと言いたくもなるかも知れないが、それはご愛嬌。こっちが付いて行かなければならないのだ。ただ笑わせてくれる人ではない。我々が付いて行かなければならない笑い。そんな村上師匠に俺はどこまでも付いて行きます。

・今それなりに酒も入ってふわふわしている。ビールなどはいくら呑んでも我を忘れる事は無い。酩酊し、ふわふわするのが楽しいのだ。決して酒が旨いと思ったことは無い。口にした瞬間に思うのはいつでも「まずっ!」である。酔う為に呑んでいる。酒は飲み下している。坂口安吾の言葉である(要約)。酒は確かに不味い。酔う為に呑むものだ。酔って忘れるために呑むのだ。何を忘れる?全てを。

・忘れたい事は沢山在る。というか思い出す事は忘れたい事である。良い事は思い出さない。こんな楽しく飲んだ日に思い出すのは君の事である。「冬の空に君を想う。君が傍に居ない事嘆く」こんな詞を書いた事もあった。本当にその人の幸せを想うならば、その人には近付かないで置く事が最良なのだと知る。デイヴ・グロールもそのような事を言っていた。自分の様な浅はかなものが本当に想う人を幸せに出来るなどとは、それは奢りである。その人にはその人に一番ふさわしい人にきっと出会うのだ。自分が幸せにしてやろうなどとは傲慢も甚だしいところだ。俺はもう人を思いやる事も誰かを想う事も辞めた。もう全て忘れたいのである。全て忘れたとしたら。また失敗するまで学ばない自分がぐうたらに生きて行くだけである。馬鹿は死ぬまで治らない。凄く傷付いた。中途半端な出会いと別れを繰り返した所為である。忘れたい。いや、捨てたいのである。一切の迷いと痛苦と記憶を。しかし迷いが無ければ道を探す事もしないだろうし、痛苦が無ければ慈愛も生まれないだろうし、記憶が無ければまたそれを辿る様な暮らしをするだけである(結局そこにたどり着くような)。全ては陰と陽。表裏一体である。捨てようとしても到底捨てられはしないものなのだ。そんな事は15歳から分かっている。高校に入った時から常に反芻してきたようなテーマだ。だが俺は敢えて捨てたいのだ。しかし捨てられないのだ!酩酊すると思い出すのは君の事ばかり。どうやら記憶を捨てるには消えるしかないようだ。どうして綺麗で、かつ可愛くて、かつ笑いが分かっている女性を忘れられる事が出来ようか。ああ愚かなり我がこころ。移植したいとするならばこころを移植したい。小賢しい事を考えないで済む様な身体になりたい。いや嘘だ!!嘘に決まっている!!この精神を誇っている!!この下っ腹を憎んでいるw!!それは確かだw

・今年の目標は「君」を忘れるか「君」に会いに行くかのどちらかだ。傷付くのが怖くて行けないのと、忘れようとしているので行きたくない。気合を込めて自転車で山科まで行った日は丁度教習所は休みだった。これは一種の暗示だと思った。「もう忘れよ」との神の暗示だと思った。無神論者のこの俺が!!弱い心よ!!どうせ素敵な誰かがいるはずだ。そんな彼女が教習所の手すりにもたれ掛かって、所内のコースを走り行く車を遠い眼で見つめているのを見ると、私はなんともいえない気持ちになった。本当に美しい女性が遠い目をしていると、俺のようなクソショボい愚民はどうする事も出来なくなってしまうものだ。俺が唯一後悔するとするならそこである。そこで声を掛けるかどうかで全てが決まると言っても過言では無い。で、日頃から「自分が関わらない方がそのひとは幸せになる」という思想を持つ口の悪い臆病者はそこまで深入りする事を避けた。避けて、避けて。どこまでも避けて。チキンはどこまでも逃げた。どうする事も、どうもなりえなかっただろうに。今もあの人は遠い眼をしているのではなかろうか。そんな事ばかりが山を一つ隔てた向こう側の山科に向かっている。アホだ。消えてしまいたい。毎日消えてしまいたいと思い続けている。他人の話ももうロクに聞かなくなってしまった。最初とオチだけ聞いて適当に合わせて笑ったり、「まさか」と返したり(太宰風)。集中して他人の話を聞く事もなくなってきている。こんな調子では痴呆が進み、信頼が失われるばかりである。しかしもう自分を保っていられる事も少なくなってきている。もう潮時だと思う。