ゆっくりいこう

自分の為だけに書いています。意見は聞いていません。

  • 毎度毎度呪いのように。
  • その辺を歩けば棒に当たりまくり、寺町の漫画屋に行けば店員さんに、プールに行けば人妻に、旅行に行けば、なんだかんだでそこらじゅうの女性に目を奪われてはどーしょーもねーなーってんで倦怠。死んだらええのにな。
  • こないだ石原都知事が(あのオッサンも税金で遊んでるってのに再選ってどうなんって気はするがそういう力関係なんだろうな)ワイドスクランブルで喋ってた。好きな言葉に「情熱」、嫌いな言葉に「言い訳」。そのチョイスは嫌いでは無い。寧ろ好きな方だ。男ならー、とか言う言い方は好きではないが男ならー、ガタガタ言い訳せんとやる事やってから発言しろとは思うな。甘ったれた戯言は死んでからで良い。なんて言ってる俺は卑怯者以外の何者でもないのだが。
  • 情熱も持たずに死んで行く人は何が楽しいんだろうな。貯蓄残高とかかな。表層の楽しみにのみ目を奪われて人間らしい死に方が出来ない事は幸福なのか?不幸なのか?答えは無い。
  • 自由に人生を謳歌出来る人をみて羨んで蔑んで。どうしたいんだ、と。ここ数週間はずっとそんな日々だった。十年前にも同じ事を考えたはずなんだ。そこで俺はきっと結論を出した筈だ。今より遥かに苛烈に生きていた俺が答えを先延ばしになんてした筈が無い。答えは、悪魔に魂を売るしかない。そういうような事だったのだろう。一切の人間らしい幸福を全て捨て、というよりも元来享受出来ぬ身、血塗れのままズタボロで足を引き摺りながら進む、そういう事だったのだろう。なんという悲しい。自己犠牲の尊さ。哀れな。「なんという〜」から書いてきて薄ら寒過ぎて笑えた。そんな大層なもんじゃない。生まれて死ぬだけだ。
  • 俺が憧れている人は結果のみを重視する。俺は過程を重視する。結果だけで物事を捉える事がもう俺には出来ない。結果は死、いわゆる一般的な幸福を享受出来ない死。それだけだからである。故に過程に重きを置くようになった。というか、過程のみを論じているような気がする。結果はもうどうでもいい。どうせ死だ。死ぬんだ。どれだけ苛烈に生き抜くか、死ぬか。そこだけでいい。理解してくれる人なんて居る訳が無い。故に言葉も捨て、表層のみで話すようになった。もう言葉も意味を為さない。真情を吐露するのは音楽だけになった。友達も居なかった高校時代。神戸に行き、ほぼ初めてと言える友人との出会い。完全否定されて生きてきた俺は、間違っていなかった。それが分かっただけでも良かった。もう、言葉は要らない。幸福も。
  • 幸福には憧れた。憧れて、憧れて、毎日憧れた。憧れて、憧れて、自分なりに勇気を出して手を伸ばすも、自分の醜さ愚かさ故に届かず、その度に絶望し、死にたがった。あの頃は本当に死にたかった。今よりも遥かに死にたかった。10歳位から毎日毎日死にたかった。消えて無くなりたかった。木端微塵に、この世界に存在した証を全て破棄して、自分がかつて絡んだ事のある全ての人間の記憶から自分の記憶を破壊して、そして死んでしまいたかった。
  • 人並程度の暮らしはしたくなかった。今しっかりそれをやってるんだけど、そういうありふれた幸福に、俺は気付き難い。失えば分かるのだろうけど、今それを実感する事は無い。足首に打ち込まれた鉄の楔に繋がる足枷にがんじがらめになって、身動きが取れないような家庭環境でも、それを幸福だと認識しないといけないのだ。こういう言い方はきっとおごったものだと思う。でもそれが、真実な場合は。
  • 疾走して、疾走して、疾走して、盲目になり、神経は断たれ、両手足はもがれ、感性は死に、心に穴が空き、遂には消えてしまいたい。
  • いちいち、窮屈になっていた。何もかもに。どん詰まりの閉塞状態。俺の周りは全て何もかも閉塞している。疲弊と磨耗から現実に目を背け、逃げているのだ。
  • 活きろ。今こそ。少し、持ち直してきたが。