ゆっくりいこう

悪意はありません。気分を害されたら済みません。自分の為だけに書いています。主に愛着障害(恐れ-回避型)やアダルトチルドレンからの回復を目指して、日々思う事を書いています。

  • 参議院選自民圧勝の最後の機会までに、色々会得しておく事がある。
  • このまま生きていって、まず間違いなく自分は心の底から満足する事は無いし、喜びも得られない。金も得られなくなって、まず生きていく事が困難になる。最低限、生きていく為に必要な経費というものがある。僕はこの世界で、この国のこの地方都市に生まれて、そこを離れられない位馴染み深く感じている。忌々しい思い出しかなくても、だ。
  • 生きる活力が湧いてこない。日々力が抜けていく気がする。これが年々酷くなって、多分後五年持たない。これはハッキリしている。何にも挑戦する気力も湧いてこないし、楽しめる事がない。毎度毎度何もない。いのちというものは、モチベーションが必要なのだ。ただ生きて、ただそれだけでいい人にはなれなかった。配偶者が居て、子供が居て。そんな当たり前の様に見える暮らしの敷居はとんでもなく高かった。まぁそれはいいんだけど。
  • 心が溶け合って、なんだか一つになった気がして。融合したものが、無理矢理引きはがされて。心が空っぽになった気がして。それでまた誰かと出会い、融合し、解離される。それを繰り返す事で、自分の心には今、最早何も無くなってしまったかの様な心持ちである。何かを感じる事も無く、生き甲斐も無く、何を為すでも無く。誰かの為の誰かの仕事をこなすだけで時間と心を使い切って、何も残らない。木暮太一氏がその著書の中で、賃金は、明日同じ労働力を行使する為に必要な最低限の金額だと言っていた。疲弊して土日でなんとなく回復して平日で使い切って、のエンドレスエイト。セブンだけど。
  • みんないのちとか、こころとかについて、何にも考えないんだろうか。楽しく生きていきたいのなら、今のこの暮らしからは抜けないといけない。
  • スタンフォード〜の本の中で、疲労感は無視出来るという文章があった。脳がこれ以上エネルギーを使って疲弊しきる前に、あらかじめ疲労のシグナルを出して置いて、それ以降の活動を抑制するというモノだ。要は、出し渋りなんだな。パクチソンが、「疲れていても、走る事は出来る」とは言っていた。確かに疲れていても、いきなりガス欠に陥って一歩も動けなくなるなんて事はまず無い。この辺を鑑みて、やっぱり疲労感という感覚は、エネルギーの出し渋りなんだなと思う。今まで言葉に出来なかった様な感覚、知見、経験が、この本によって紡ぎ合わされる感覚がある。スティーブジョブズが言う所の、「点と点が線で繋がる」だ。
  • もっとシンプルに行きたい。そこに注力していても、何にもならないのなら、無駄なんだよ。無駄な事にかまけるのは、サボりたい、もしくは、「進みたくない」からだ。進む事によるリスクと変化を恐れるな。進む事を辞めてしまったら、退化の一途をたどるのみ。進まない事が、それ即ち退化なのだ。
  • 僕は音楽も勉強も辞めて、日々を投げ捨てる様に過ごしている。自分で聴く為の自分の曲のCDも一向に作らないし、投資や投機も一向に始めない。明らかに楽しいと分かっているギターも滅多に弾かないし、一眼レフも買わずに居る。変化と、喜びを全否定している。何故そんな事をしているのか。楽しむのが怖いのか。つまらない事で日々を埋め尽くしてそれに明らかにうんざりしきっているというにもかかわらず、それを日々の疲労感から変える事を拒み続けている。変化というものは、それ程恐ろしいモノなのか?否、むしろ自分は変化をこそ喜ぶ生き物なのだ。毎日同じ時間に同じ電車で同じ仕事をしに行くとか、多分恐らく、狂気の沙汰でしか無い。
  • 愛情が怖いんですか?裏切られた。人間しか分からないさ、そんな気持ちは。